ここ武豊における銀行の動向は
この知多地方の最初の銀行は
明治十二年に半田村に生まれた
第百三十六国立(こくりつ)銀行(ぎんこう)であり、私立銀行では、
明治十六年に設立した、半田(はんだ)銀行(ぎんこう)ではあるがいずれも早く廃(はい)業(ぎょう)した。
明治二十六年後半になると商工業が発展(はってん)段階(だんかい)にはいり地元資本による銀行も
明治二十六年、亀崎(かめざき)銀行(ぎんこう)、明治二十八年から二十九年にかけ、内海(うつみ)貯蓄(ちょちく)銀行(ぎんこう)が内海町、衣(きぬ)浦(うら)貯金(ちょきん)銀行(ぎんこう)が亀崎町、知(ち)多(た)貯(ちょ)蓄(ちく)銀行が野間村に設立、ついで明治三十四年三月中埜(なかの)銀行(ぎんこう)が半田町、大高銀行が大高町に設立された。
明治二十三年四月八日、知(ち)多貯蓄(たちょちく)銀行(ぎんこう)が武豊に進出(現多(た)賀(が)屋(や)給油所(きゅうゆじょ)の地)に武豊支店をを設けた(もうけた)。
知多貯蓄銀行は野間の夏目仲助を総代として名古屋の岡谷惣助ら七年の発起により資本金五萬円で開業した銀行であり、大正七年のころ中埜銀行のの進出が顕著となった。
中埜銀行は半田の中埜一族により出資金二十萬円で設立された会社でその中埜銀行が大正十一年の四月に進出武豊派出所(現、里中、杉江隆三氏宅)を設けた。
昭和二年名称を武豊出張所と変更、さらに昭和五年には、金下59に(長尾山移転前の東海銀行の地)に中埜銀行武豊支店を設けたため武豊町域に二つの銀行が併存することになった。
昭和十一年大蔵大臣が金融の統制強化を図るため一県一行主義を提唱すると銀行の合併が進み昭和十三年に中埜銀行が昭和十四年に知多がそれぞれ伊藤銀行と合併、中埜銀行武豊支店の建物が伊藤銀行の武豊支店となり知多銀行武豊支店は閉鎖された。
しかし知多銀行富貴出張所(富貴市場)は伊藤銀行武豊支店富貴出張所として存続した。昭和十六年愛知・名古屋・伊藤銀行の三行が合併し、「東海銀行」となり、昭和十年店舗整理が行われ、富貴出張所が廃止された。