明治十九年三月に熱田・武豊港間に国有鉄道武豊線が開通した。
武豊駅と武豊港の間は大足村の小高い丘があり、武豊港まで汽車を通すためには丘を切り開く必要があった。
そのため、明治十八年七月十一日武豊工事区の掘割作業を開始した。
当時、尾張出身の土木工事に従事した技術者(黒鍬者)は尾張の中でも、長尾村(武豊町)、宮津村(阿久比町)、半田村、藤江村、石浜村等、知多半島の衣が浦湾沿いの出身者が多く、大きな鍬を持ち、二人前働くと言われるほど力が強く、又、土木技術に長けて(た)いた。
尾張徇行記によれば、多くの黒鍬者が他の土地に出稼ぎに呼ばれていたことが記されている。
伊藤銀行跡の屋根に座っている杉江病院の先祖「杉江平平太郎氏」がこの掘割工事及び武豊港の開港工事に尽力したとも言われる。
尚、熱田武豊間の工事はその後、八月一日より開始された。武豊駅と武豊港駅は同駅構内とみなされ、停車場所は自由であり、そのため、味噌、たまりの積み込みには味噌蔵の前に積み込み場所があり、帝国火薬(日油)、ライジング石油(シェル石油)の引き込み線も設けられた。