須佐之男(スサノオノ)命(ミコト)・大己貴命(オホナムチノミコト)(大国主(オオクニヌシノ)命(ミコト)の若い頃の名)・少彦名(スクナビコナ)命(ノミコト)・弥五郎殿(イマタネツグ)命(ノミコト)をまつる四級社で、長尾城鎮護の社として歴史が古い。本国神明帳所載の神社で古来神領神戸(かんべ)並びに長尾七宮と称せられた。貝塚の上に建ち、付近に多数の古墳群がある。
七宮とは、若宮社・祠(ホコラ)峯(ミネ)社・天神社・山ノ神社・白山社・八幡社・神宮社で、旧所在地は、長尾城の出城の役目を果たしていた。
江戸時代以降は、城主岩田氏の子孫が代々宮司として奉宰しており、本祭は4月15日、各種の祭典が催され、結婚式場に利用されている。
神社ゆかりの地名としては「金下(カナゲ)」は、カンナビ(神のいます地)の変化したものである。
「祠峯」は、豊受姫(トヨウケビメ)命(ノミコト)をまつる祠峯社の所在地で、昔、虫送りの地点である。
「山ノ神」は大山祗神をまつる山神社所在地、武豊中学校の高台は、白山社にちなみ「白陵の丘」と呼ばれている。
「天神前」「若宮」はともに社名にちなむ。「ヱケ屋敷」は初代宮司岩田弥七郎光忠の邸にちなむ祢宜屋敷の変化したものか。
「内鉋(ウチカンナ)」は、金下と同じく、カンナビの変化したものと考えられる。
(武雄神社社務所発行「月吟の森」を参照)
長尾城ゆかりの地名
「上(ア)ケ」は、城主や家臣たちの住居のあった高台の尊称。「下門(シタモ)・西門(ニシモ)」は、城門の位置を示す地名。「中狭(ナカバサミ)」を通称「馬場(バンバ)」と呼ぶのは、馬の飼育や兵卒の訓練場だったのであろう。
「高野前(タカノマエ)」は館の前を表す「高殿前(たかとのまえ)」の転化だろうか。「小迎(コムカイ)」は、本神(ホンゴウ)戸(ド)川を挟んだ「川(かわ)迎(むかい)」の変化と考えられる。