「オジイチャン、今日は、テングサンの話、聞かしてよ…。」
「うん、よしよし。」
昼間、焼けるように照りつけていた真夏の太陽も、すっかり西に沈み、星が中天高くまたたいていました。
地面には、まだ日中の暖かみが、干し草の匂いのように残っていましたが、庭の縁台には、涼しい風がそよそよと吹き通っていました。
パタパタと、時々幼い孫や自分の足もとの蚊を追いながら、おじいさんは、ゆっくりとした口調で語りかけます。
「ほらな、海の方を見てごらん。あの一の字を書いたような、ちょっと高い所があるだろう。あそこは塩田っていう所だが、昔はな、あの左(西北)の所に丸いお山があって、みんな『丸山』って呼んでおった。
そのお山のまん中へんに、一本の大きな松が生えとった。それはそれは大きな松の木で、何年くらいたったかわからんくらい、太くてな、大人が何人も手をつないで、やっと届くくらいの、でっかいものだったよ。
この松の木の枝は、うんと上の方にあって、四方に伸びた太い枝から、たくさんの小枝が出とって、大人が何人も腰かけたり、寝たりすることができるくらいだった。
この松には、時々、天狗さんが来て涼むんだよ…。
天狗さんというのはな、顔が真っ赤で、お鼻がこーんなに高くて、目がギョロッとしとってな、西の方のお山から、空をビューッと飛んできて、その枝の上で夜風に涼むんだよ。オッチョク(こわく)ないよ。おじいちゃんがついとるし、むかーしのお話だからな。そうか、そうか。じゃあ、おじいちゃんのおひざに抱っこしてやろうかな…。
松の木の枝に腰かけた天狗さんはな、大きな大きな羽のうちわで、バタバタと体をあおぎながら涼まれるので、みんな、この松を、『天狗お涼みの松』って呼んどった。
丸山の近くの家では、夜中にバタバタと鳴る風の音を聞くと『ああ、お天狗さんが今夜も涼んでおいでなさる』と言い合ったものだよ。
おじいちゃんが子どものころは、このへんの海はとってもきれいだったよ。波が、ザブン、ザブーンと白い砂浜に寄せとってな、赤いちっちゃなカニさんが、かわいいハサミを振り立てて、ちょこちょこっと走っとった。澄んだ海の中で、小魚が仲よう、すいすいと泳いでいくのがよく見えて、おいしいアサリも、たくさんとれたよ。
だがな、戦争中に川崎製鉄が建てられることになり、丸山は平らになってしまい、松も切られてしまった。お天狗さん、あれから、どこで涼んでおいでるだろうかなぁ。」