尾張徇行記の富貴村の条に、「此村ハ東浦海道トホリニ村落アリ、本郷ニテハ農業一事ヲ以テイトナミトス、小百姓バカリニテ、黒鍬カセギニモ三十五六人ホドヅツ他方へ出ルト也」(下略)とあるように、江戸時代には、農民が農閑期に土工として、おもに三河方面に出稼ぎに行っていたが、市原村では、伊勢へも出かけていたようである。
黒鍬という名称の発生はいつのころか不詳だが、戦国時代に築城に従事する石工・土工を呼んだものらしく、江戸時代に将軍直属の「黒鍬者」があったのが、その証である。しかし、一般には、新田・新畑の開拓を仕事とし、技術者として尊敬されていた。