この池近くに、桓武天皇の勅願寺「御嶽山光明院」と呼ばれる七堂伽藍をを備えた大寺が建てられていたが、天正年間に、信長の子信雄と豊臣秀吉の争いにまきこまれ、一山ことどとく灰燼(かいじん)に帰したとき、多くの仏像がこの池に沈められ、危うくその難を逃れたのが、このとき発見されたものと言い伝えられている。今もこの池は「大日池」と呼ばれている。この池から、その後、多くの仏像が発見され、成岩の各寺や阿野の高讃寺の本尊となったという伝説がある。