千八百五十五年、長尾山(標高三十二m)の小高い丘の上に、異国船の侵入を防止する為、尾張藩の狼煙(のろし)台(だい)が設けられた。
千八百五十三年(嘉永六年)、ペリー提督率いる米国艦隊の来航(らいこう)により、我が国の開国(かいこく)攘夷論(じょういろん)が激しさを増す中、幕府は異国船対策の為に諸藩に沿岸警備強化を命じた。
これを受け、尾張藩は知多半島の見張り強化と、有事の際の連絡手段として、「狼煙台」を設置した。
師崎で異国船を発見すると狼煙を上げ、大井→布土→武豊(長尾山)→半田亀崎→緒川→大高と狼煙を繫ぎ、最終的には熱田から名古屋城の二の丸評定所へ注進することになっていた。
狼煙台は粘土で造られた竈(かまど)状で壁の一部に焚(たき)口(ぐち)が設けられこの中で枯れ枝や青葉等を燃やし狼煙を上げたのです。
それと同時に、早飛脚(はやびきゃく)が、師崎→大井→矢梨→河和→布土→大足→成岩→乙川→藤江→大府→大高→熱田と走らせた。そのため、早飛脚継場も設けられた。
ただ、狼煙台が海岸線でなく、街中の長尾山の小高い丘に築かれたのは珍しい。
東海地方で唯一現存する狼煙台は南知多町の大井、聖崎の上に残されている。
その後、内海海岸の高台に大砲が設置され、狼煙台と大砲、それに加え、船三十隻ほどを動員し大規模な演習も行われた事もあったと言われます。
ただ、狼煙台が実際には役立つことはなかったようです。