愛知県知多郡武豊町観光協会ガイド

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森田萬右衛門

愛知用水発案の父とも言われ、萬右衛門六十六歳、愛 用水を建設した知多市の久野正太郎が十七歳で青年会の萬 衛門の講演で、この地の水不足を解消するために当時でき いた明治用水のような設備を木曽川からこの地知多半島に 引こうという内容の講演あった。
それは、その当時としては突拍子もない発案ではあったが
信念をもってすれば必ず出来ることを久野は諭された。 森田萬右衛門は、一八五二年富貴村の農家森田浦蔵の子と て生まれた。
幼名を亀太郎と言い、村の円観寺の寺子屋「弘文学校」で井田与次右衛門先生二宮金次郎等の教えを受けた。
萬右衛門は、地域社会の為に奉仕活動をすることにめざめ悪事には毅然とした態度で立ち向かう正義感の強い青年で村の青年のリーダー的な存在であった。
亀太郎は名前を萬右衛門と改め二十八歳の若さで三芳村の村長となり、その時にはここ三芳村は、千石船が行きかいそこで働く村人は、稼いだ金で飲むは買うわで、村の秩序は荒れ放題になっていた。
萬右衛門は、村の家々の主を一堂に集め
村での「賭博禁止令」を発令し一同に誓約書に印を押させた。
さらに、この令を破り賭博をした者からは金十円の罰金の徴収を申し入れた。村人たちはこれに賛同し村の改革がア始まった。
円漢寺の護摩堂には、船の守り神でもある琴平さんのほかに 断酒、賭博禁止、断女性と言う珍しい絵馬が掲げられている。
萬右衛門は家族の悩みごとの相談にものり解決をしてやったりもしたが。
萬右衛門はこの地をよりよくするために、私財を投げ打ち
一、 小学校の改築
二、 桑畑、森万新田の開拓
三、 養鶏・養蚕・畜産等に尽力した。
昭和七年、新宿御苑で開かれた観菊会では天皇陛下に拝謁した。
私財を投げ打ったため住まいを三度も変わることとなり財もほとんど無くして村の為に尽くした。この地の偉人です。

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