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第五話 長尾城興亡記

「申し上げまするっ。馬場(バンバ)の柵(さく)を破られましてござるっ」
血に染み、城兵に扶(たす)けられて駆けこんだ早馬(はやうま)の武士は、城主の前に突っ伏して、肩を振るわせています。
「なにっ、もう柵を破られてしまったかっ。」
城の主、岩田左京(サキョウ)介(ノスケ)安弘は床几(しょうき)からすっくと立ち上がり、北の方角を血走った目で見やりました。
水野軍の侵攻に備えて、馬場の地に幾重にもめぐらした堀や柵は、無残にも引きちぎられ埋められ、指物(さしもの)を風になびかせた敵軍が、野を埋めつくす勢いで城に迫ってきています。
「ああっ、やんぬるかな。」
ぎりっと歯ぎしりをさせて、安弘は床几(しょうき)に戻ると、軍(ぐん)扇(せん)を折れよとばかり握りしめます。
城を枕に、もろともに討死と、覚悟を決めた城兵たちは、主君の顔を必死に見上げていました。
(一)豪族の岩田氏
承久(じょうきゅう)の変(へん)(一二二一)の後、贄代(にえしろ)郷(ごう)であった当地は、枳(キ)豆(ズ)志(シノ)庄として、幕府の直轄領となり、名越(ナゴシ)遠江守(トウトウミノカミ)という人が、新補(しんぽ)地頭(じとう)として赴任にしてきましたが、京都の六波羅探題(ろくはらたんだい)の勧めもありましたので、山城(ヤマシロ)国醍醐(ダイゴ)(京都府宇治市)の石田出身の岩田朝弘を代官として治めさせたようです。
ところが、北条氏の力が弱まってくると、西海岸に一色(イッシキ)範(ノリ)氏(ウジ)という者が移り住んで、強い勢力を持つようになりました。
そこで岩田氏は館(やかた)の回りに深い堀をめぐらし、本神戸川の水を引き入れるとともに、その東隣りに長尾城を築いて守りを固めました。
建武の中興(一三三四)後の南北朝の争いには北朝方に味方していますが、四年後に足利尊氏が将軍となって室町幕府を開くと、この地は園城寺(オンジョウジ)に寄進され、さらに柳原家の荘園を経(へ)て、醍醐三宝院(サンホウイン)の寺領(じりょう)となります。岩田氏は、出身国の縁で、引き続き醍醐三宝院の荘官(しょうかん)となり、知多随一の豪族となっていきます。
さて、室町時代も中頃を過ぎると、将軍の力が衰え、各地で力の強い者が頭を持ち上げます。
知多半島南部東海岸には、三河から戸田氏が入ってきて、河和を中心に勢力を持ちます。そのため、力の弱ってきた一色氏は内紛をおこし、家臣の佐治宗(サジムネ)貞(サダ)が、大野の宮山と内海に城を築いて、主家にとってかわります。
また、知多北部東海岸には、緒川を拠点とする水野氏が次第に力をつけてきました。
さあ、岩田氏にとっては、大変なことになりました。やむなく各所に支城を築いて対抗します。
そして――、とうとう応仁の乱(一四六七)を契機に、天下麻(あさ)の如く乱れ、下剋上(げこくじょう)の戦国時代に突入しますが、今川氏の勢力下でつかの間の小康(しょうこう)を保っていた知多半島に戦雲うずまきます。水野軍が織田氏と結び、英比(エイビノ)庄の久松氏と共に、怒涛の如く南下し始めました。
(二)ああ、開城
怒涛の如く南下を続けた水野軍は、ひたひたと城に迫ります。
城主岩田安広は、主君と共に城を枕に討死(うちじに)をと、必死のおももちで仰ぐかわいい部下たちを、みすみす死地(しち)に追いやることはできませんでした。
主君の命には従わなければなりません。長尾城は全面降伏したのです。
岩田安広は剃髪(ていはつ)して僧形となり、杲(コウ)貞(テイ)と号して、水野の本陣におもむきました…。
しかし、長尾城の将兵に待っていた運命は、決して幸せなものではありませんでした。先に戸田軍に攻めとられた富貴城攻略戦に先鋒(せんぽう)として投入されたからです。
――そして、城は廃墟と化し、兵たちの夢のあとを見るのみとなります。

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