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第六話 権現井

時は天正十年(一五八二)六月の半ば、富貴の里は、田植えも済んで、折からの梅雨に静かに煙っているように見えました。しかし、世情は穏やかでなく、都では大きな異変が起こり、また大変ないくさが始まるという風聞に、里人の心は暗くおののいておりました。
そのころ、みの・かさに身を包んだ十人あまりの武士の集団が、ひたひたと、この里に足をふみ入れていました…。
主君らしい、かっぷくのよい武士を中心に、前後左右を、ひとかどのつらだましいの屈強な男たちが用心深くとり囲み、中には、刀のつかに手をかけて、あたりをうかがう者も見られました。
と、物見と思われる二、三人の若侍が、前後から急ぎ足で近づくと、声をひそめて告げました。
「殿、一大事にござりまする。残念ながら、どうやらとり囲まれたと思われまする。」
集団に、思い沈黙と冷たい緊張が流れました。
「本多、いかがいたしたものであろうかのう。」
「はい、敵に面と向かわば、やむをえませぬ、血路を開くまでなれど、多勢に無勢、先は見えておりまする。三河に無事お帰りあそばすことこそ急務にござりますれば、今は恥を忍びたまい、身を隠されて一時をかせぎたもうが肝要と心得まする。」
「本多どのの申されること、もっともと存ぜられまする。幸い、ここに古井戸がござりますれば、もったいなきことながら、それがし酒井忠次と共に、この中へ身を沈ませたまい、おのおの方には、ここ、かしこと、身をひそませ、敵もし気づかば、身を挺して守らせたまえ。」
「うむ…。やむをえざることよのう。」
「されば、心得てござる。」
「急ぎ候え。」
武士たちの一瞬の動きのあと、再びあたりには、何事もなかったような静寂が帰り、蛙の鳴き声が聞こえ始めました――。

 本能寺で織田信長が明智光秀に不意討ちされたのは、天正十年六月二日のことでした。
その時、岡崎城主徳川家康は、信長の命令で泉州堺へ兵を進めていましたが、密偵からの急報で、本陣は大さわぎとなりました。
京都の知恩院を出て信長公に殉死すると言い張る主君をなだめ、ひとまず三河へ帰り、善後策を講じようということになりました。しかし、帰国の途は苦難の連続でした。光秀は、信長が最も信頼し、その後継者となる者は徳川家康に違いないと考えていたからです。
光秀方の探索の手は、網の目のように、要所要所へ張りめぐらされておりました。やむなく家康一行は、本多平八郎を初めとして、榊原小平太、石川数正、酒井忠次、大久保忠佐ら十数人になり、他はそれぞれに、三河を目指すことにしました。
河内、山城、伊賀、柘植、伊勢、鈴鹿川と逃避行が続き、白子浜から小舟で知多常滑の庄に上陸、人目を避けて成岩の常楽寺を目指します。
そして、この富貴の里で、とうとう追手にとり囲まれそうになってしまったのでした。
…太った体を折りかがめて、井戸の中に身をひそめた家康主従も、そこかしこの物かげや草むらに、目をぎらぎらさせ、刀のつかに手をかけて息を殺す家臣たちには、それは、やり切れなく長い時間が過ぎていきます…。
しかし、平八郎のとっさの機転は、一瞬の差で家康の身を救うことになりました。ガヤガヤと声高にざれ言を言い合いながら、追手は気づかずに通り過ぎていきました。
九死に一生を得た家康主従は、たがいに幸運を喜び合いましたが、まだまだ敵中で、油断はなりません。家康を中心に一段は黒い固まりとなって、折からの闇の中へ、ひそと消え去りました。
無事常楽寺に入ることができた家康は、三河大浜を経て、岡崎城へ帰着できました。

 


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