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第九話  富貴城始末記

 隣の町、美浜町の河和の、街を見下ろす高台に、全忠寺というお寺があります。ユースホステルを経営したり、各種の会合に利用されている変わった寺ですが、この寺は、戸田水野家代々の菩提所という由緒があります。ここに、古びた二基の位牌が安置されており、戸田水野家では、代々、
「これは、当家にとって何よりもご恩の深い方々である。ご先祖をお祀(まつ)りするときは、その前に、必ず丁重にお供養せよ。」
と、言い伝えてきたといいます。
古色(こしょく)蒼然(そうぜん)として、今では、その文字も判明しませんが、富貴城の落城に際して、主家のため玉砕した武将や兵士を祀ったものではなかろうかと、言い伝えられています。

 第五話でも触れましたように、もともと富貴城は、室町時代後期に長尾城主、岩田氏が築き、布土城とともに、南への押さえとした支城でした。
ところが、海道随一の勢力を持つようになった駿河の今川義元の支援を受けた戸田氏は、西浦の佐治氏と協定を結んだうえ、半島南部に上陸し、河和に本城を築いて、ついに岩田領へ進入を始めます。時は天下麻(あさ)の如く乱れた戦国時代の初めです。
まず、布土のとりでが落ち、ついで、岩田氏は富貴城を放棄することになります。
戸田氏は、一族の戸田法雲を富貴城へ入れて、北への備えを固めました。一族の最長老を投入したことからみて、この城がいかに重視されていたか、よくわかります。
さて、戦国の中ごろ、織田と組んだ緒川城主水野信元の軍がついに南下を始めます。成岩城も長尾城も一蹴(いっしゅう)され、喚声をあげて大軍がなだれ込んできます。
迎え討つ城兵は、戸田氏の精鋭です。織田氏と敵対関係にある今川方の戸田軍は武将も兵卒もまなじりを決して敵陣に突入し、獅子奮迅(ししふんじん)の戦いを展開しましたが、勝機に乗る水野軍の前には、しょせん壊滅があるばかり。全員、城を枕に討死を遂げ、城は黒煙を上げて燃え落ちます。東大高から富貴、布土へかけて、敵味方の死骸が累々と横たわり、誠に目を覆うばかりでした。いずれにしても、大変な戦いでした。
水野軍は、さらに余勢をかって南下を続け、河和本城へ迫ります。領主は結局、城を開いて水野軍に降(くだ)ることにしました。この河和本城の無血開城は、水野軍にとってもほっと息をつくような極めて歓迎すべきことでした。
このことも有利に働き、また、田原にあった戸田本家が駿府に送られていく幼い竹千代(後の徳川家康)を途中で奪い取り、織田信秀のもとに送って、織田氏の対今川交渉を有利に導いたこともあって、知多の戸田氏はその家を保たれ、水野家から養子を迎えて、水野姓を許され、江戸時代に入ると、大名や旗本にとり立てられています。
こうして富貴城は、割合短い命脈で廃墟と化し、今は本丸跡に白山社が建てられ、その西は、円光房と呼ばれる天台宗円観寺の境内になっております。その西に戦死者を葬った「いななきの塚」があったそうですが、今はその跡もありません。

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