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武豊(たけとよ)線物語

明治二年、関東(かんとう)と関西(かんさい)を鉄道で結ぶ計画が決定した。
初めは、中山道(なかせんどう)(現在の中央(ちゅうおう)線(せん))を通し、熱田(あつた)、大垣(おおがき)を抜ける線が有力視(ゆうりょくし)され、関東・関西方面から工事が開始された。
なぜ、山岳(さんがく)地帯(ちたい)を候補地(こうほち)として決めたのか、一説には外国と戦争になった場合、海側の線路では攻撃されやすい。よって攻撃(こうげき)目標(もくひょう)としてなりにくい日本の中央(ちゅうおう)山岳(さんがく)地帯(ちたい)を通す案が採用されたという説がある。 関東から上野・高崎・峠の釜飯(かまめし)で有名な横川と工事は進められたが、そこで問題が発生した。中央アルプスの山々にその行く手を阻まれたのだ。
当時の技術では、「日本の屋根」中央アルプスを越えることは多大な財と多くの労働力が必要であり、多くの人命が失われる可能性があり、明治十九年七月十九日ついに、現在の「東海道」を通す線に変更された。
武豊線は、東海道(とうかいどう)線(せん)建設(けんせつ)の為の資(し)機材(きざい)(イギリスから輸入)を熱田に運ぶ資材(しざい)専用(せんよう)線(せん)として建設されたものではあるが、すんなりと武豊に決まったものではない。
最初は、三重の四日市と知多の半田が候補として挙げられたが、四日市港(よっかいちこう)から熱田に資材を運搬するには、木曾の三つの大河(木曽川(きそがわ)・揖斐川(いびがわ)・長良川)に橋梁(きょうりょう)を建設しなければならない。 ことが問題となり知多の半田案が浮上したが、ここでも問題が発生、大型(おおがた)船(せん)が停泊(ていはく)するには、港の水深が浅い、矢作(やはぎ)川(がわ)の砂が半田港の水深を浅くしているのだ。
それにより、①海も穏やか(おだやか)で、②水深(すいしん)もそれなりに確保でき、③盛んな海運業(かいうんぎょう)、④、黒鍬者(くろくわもの)の存在と条件の揃っていることと、地元の要望力(ようぼうりょく)により、熱田と武豊港(たけとよこう)を結ぶことに決定した。
明治十八年八月一日工事に着工
明治十九年三月開通とわずか八ケ月で熱田・武豊間の 三十三.二キロの鉄道を引いてしまった。 このことは、現在においても驚くべき速さと言えよう。
ここ武豊線は「資材(しざい)専用(せんよう)線(せん)」であることから当然東海道線完成すれば、廃(はい)線(せん)となる運命のため、小さな橋梁は木造で造られた。 明治十九年二月二日、当時の鉄道(てつどう)局長(きょくちょう)で熱田「井上」は、内閣(ないかく)総理(そうり)大臣(だいじん)「伊藤博文」に「今後、旅客・貨物線として武豊線は必要になる。」ことを上申(じょうしん)した。結果、現在の武豊線は残され、当然、橋梁(きょうりょう)等は補強された。 但し、昭和四十年八月十九日武豊・武豊港間の営業は停止し、現在は線路も撤去され、掘割(ほりわり)も道路となっている。それまでは、武豊駅と武豊港駅の間は同じ駅(えき)構内(こうない)として、味噌・たまり等の積み下ろしをしていた。 武豊線は蒸気(じょうき)機関車(きかんしゃ)の運転を昭和四十五年の終え、ディゼル機関車に変わり現在に至っているが、現在電化(でんか)工(こう)事が進められています。 さて、ここで鉄道について聞いてみましょう。
東海道本線の開通は何年でしょう。?
明治二十三年開通
東海道線は何処から何処まででしょう。?
東京新橋から神戸まで
中には、大津、長浜間は琵琶湖を船で渡る東海道線であったと言われています。
それでは、ここ武豊線は何番目に開通したでしょうか。?
①明治五年九月十二日、新橋・横浜間
②明治十年、神戸・京都間
③明治十三年、京都・大津間
④明治十六年、長浜・関ヶ原間
⑤明治十七年、上野・高崎間
⑥明治十八年、関ヶ原・大垣間
⑦明治18年、高崎・横川間
⑧明治十九年三月、武豊線
東海道線、中央線を一つの線とすれば、始発・終着駅間の線路としては、日本で一番最初にできた鉄道路線と言えます。

現在、建設当初のまま現存する設備は
一、亀崎駅
二、石川橋梁の土台
三、半田駅構内の跨線橋
の三か所のみとなっています。

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