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武豊港

武豊港(たけとよこう)は、古くは「衣(きぬが)が浦(うら)」と呼ばれ 武豊小学校の校歌にも唄われる海は静かで天然の良港です。
江戸の時代は、酒醸造の盛んな、半田、亀崎、三河の刈谷、平坂(ひらさか)、大浜(おおはま)の湊(みなと)には大小の和船(わせん)が数多く出入りしていたが、ここ武豊港は、長尾、東大高、大足、富貴に二十隻(にじゅうせき)ほどあったに過ぎなかった。
明治五年九月十二日、わが国最初の鉄道が、新橋・横浜間 に敷かれ、その後、関東と関西を結ぶ幹線(かんせん)鉄道(てつどう)の設置、現在の東海道線の資材(しざい)運搬(うんぱん)専用(せんよう)線(せん)として紆余曲折(うよきょくせつ)しながらも、 明治十九年三月、熱田・武豊港を結ぶ、武豊線が開通しました。
そのことと、明治二十年、二十三年に日本で初めての陸・海軍の合同(ごうどう)演習(えんしゅう)が開かれ、明治天皇がこられたことがあり、ここ武豊が一躍脚光を浴びることになった。当時の総理大臣伊藤博文も台湾の総督(そうとく)を見送る為に、ここ武豊港にこられました。
軍艦や、商戦で賑わう港は、整備され、設備、労働力の整った湊は、明治二十三年県下で最初の海の玄関、衣が浦湾一帯をもって、武豊港として開港場(外国との貿易港)にしていされ、沖に停泊(ていはく)する汽船から荷受(にうけ)する、艀(はしけ)船(ふね)(ダンベ船・伝(てん)馬(ま)船(せん)・コゴシ船)が大いに活躍した。
さらに、明治三十四年には、シェル石油の前身でもある、ライジングサン石油の油槽所(ゆそうじょ)がここ武豊港に開業し中部圏(ちゅうぶけん)に石油を武豊線の貨物列車で運ばれたのです。 昭和八年には艀(はしけ)船(ふね)が三百九十三隻もいたといわれます。
石油需要の増加に伴い、運搬用タンクの大きさも十トンタンクから二十トンタンクになり台車の車軸(しゃじく)が荷重(かじゅう)に耐えるため、二軸から三軸に改造され、R六十五の軌道(きどう)を走行することが出来なくなり、必要性と効率化から「直角二線式」の転車台が作られました。
明治四十四年には、横浜・神戸・大阪・門司・四日市・長崎・清水・三池・それに無法松で知られる筑前(ちくぜん)若松(わかまつ)湊(みなと)に次、日本で十番目の貿易(ぼうえき)額(がく)(四百五十萬円)を揚げたといわれ、一番の横浜は約四億四百萬円、名古屋は二百萬円だったそうです。
昭和四十二年四月二十五日刈谷・高浜・新川・平坂・亀崎・半田・武豊の七港が統合され武豊港から衣浦港が誕生し、昭和四十年八月二十五日武豊港線が廃止されました。 湊が繁栄した当時、汽船のスクリュウにより傷ついた亀の慰霊塔が当、大足の徳正寺に建てられています。

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