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第七話 池からお出ましの仏様

テレビでおなじみの水戸黄門さまが、大日本史という歴史の本を家来たちに命じて作らせていた明暦のころ(今から約三二〇年くらい前)のことでした。
時の長尾村の領主は、大嶋四郎兵衛久成という人で、りっぱな人でした。かれは、神仏を敬い、村人のしあわせのために、いろいろと心を砕いておりました。
今日もかれは村人を指図して、池さらえをしています。冬のうちに池を修理し、水路を整備して、今年の豊かな稔(みの)りを願おうというのです。村人たちは、慈悲深い領主の下知(げじ)に従って、額に汗しつつ、泥まみれの作業に余念がありません―――。
ところが突然、一人の若者が大声をあげました。
「おうい、池の底に何か変な木箱が沈んどるぞよーっ。」
なるほど、池の中央と思われる所に、厳重に封印された大きな木箱の頭が見えています。さて、この中にいったい何が入っているのでしょうか。
村人たちは早速、不審な箱を堤の上の領主のもとに運び上げました。
おおぜいの百姓たちの好奇と期待の目に見つめられながら、箱のふたが開かれます。
なんと、箱の中からは、三尺あまりの仏さまが現れたではありませんか。
頭にはキラキラ輝く宝冠をいただかれ、まるでこの世界を全部お体の中に取りこんでしまわれるような尊いお姿に、領主も農民も、思わず地にひれ伏して、手を合わせて伏し拝んでいました。
堤の上では恐れ多いと、池から少し離れた地まで、箱ごと仏さまをお運びしました。話を聞いてかけつけてきた近在の村人もまじって、みんな車座で、さて、この尊い仏さまをどうしたものだろうかと、相談を始めたのですが――。それが、また、大変な騒ぎになってしまったのです。
「ぜひとも、わしらがとこへお迎えしたい。」西浦の代表が申し出ると、
「いんや、わしが村へじゃ。」
と、この村の者が顔を赤らめて言い出す。
ワイワイと、大変な言い争いになり、果ては、取っ組み合いまで起きる始末になってしまったのです…。
仏さまの取り合いという、あまりの騒ぎに、とうとう、大嶋久成が仲に入ることとなりました。そして、まず、西浦の人をたててあげようということに決まりました。
喜び勇んだ西浦の代表が、早速、仏さまを持ち上げようとしますと、これはどうしたことでしょうか。仏さまは、まるで大地に根が生えてしまったかのように、ビクとも動かないのです。どんなに力を出しても何人がかりでもだめでした。
それではと、試みに長尾村の者がお抱きしてみると、これはまた、どうしたというのでしょう。仏さまは軽々と上がってしまうのです。
結局、仏さまは、長尾村へ勧請(かんじょう)と決まりました。今は他村の人々も納得して、ともどもに長尾村の観音堂へお移し申し上げ、その仏さまが大日如来さまでしたから。以後はそのお堂を「大日堂」と呼ぶことにしました。現在の大日寺がそれです。
さて、この霊験あらたかな仏さまに、領主を始め村人一同、心からのお供え物を怠りませんでした。そしてそのお陰か、長尾村は物成り豊かで、まことに平穏無事でしたので、この寺は村の支配寺として、大切に守られてきました。また、近在の村人や、遠く三河の国の人々まで、その余徳(よとく)にあずかろうと、参詣(さんけい)の人波が引きも切らず、特に旧正月二十八日のご縁日は「おはちにち」と呼ばれ、今も大変なにぎわいをします。まことにおめでたいことです。それから、仏さま争いのあった地は、西の村人が重いと言ったことから「オボタ」と呼ばれるようになったそうです。

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