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第十一話  ヒジリ田由来記

ヒジリ田という変わった地名の由来の二つの伝承を紹介しましょう。
一、聖宮(ヒジリノミヤ)の供米(くまい)田(でん)
今から七百年前の鎌倉時代のお話です。
蒙古のフビライは、中国の宋を滅ぼし「元」と国名を改め当時最大の強国を作り上げました。そして、東の国日本にもその手を伸ばしてきたのです。
大変な国難に日本は大騒ぎ!
時の執権者、北条時宗を中心に優勢な「元」の軍船を迎え討つために、日本の津々浦々から、決死の武士たちが九州に下って行きました。
その武士の中に長尾城の城主岩田氏とその家来の姿もありました。二度にわたる元軍の来襲を神風(台風)により奇跡的に退け国内は戦勝に湧きました。
手柄をたてて騎乗した岩田宏直の胸中には激しかったいくさの思い出とそれを切り抜けてくることができた神仏の加護に対する感謝の気持ちでいっぱいでした。岩田氏は九州の香椎聖宮(カシイヒジリノミヤ)勧請し、長尾城の北東、鬼門の地に祀りました。この社が現在の長尾七社の一つ神宮社(神功社)です。そしてその隣の地を供米田とし、寄進しました。その供米田は「聖の宮の田」と呼ばれその後「ヒジリ田」と呼ぶようになったとさ。
なお、もう一つのお話は
二、聖人と新田
「五平衛さ、元気がないのう、何か心配事でもおきたかや。」
「ああ、源蔵さかい。じつはのう、馬場沿いの畑がのご領主様に召し上げられてしまってのう。お侍の弓場にするからと…」「おうお、お前もかい。おらのとこは、お侍が南の田んぼの中に馬で入り込んでせっかく植えた稲がめちゃくちゃだわ。今から苗を植えても収穫できんし、…今年はどうやって冬を越すんかのう。」
「村の人たちゃみんな困っているぞ、どうしたらいいんだか…」
今から約五百年前、都で応仁の乱が起こり、国内は戦乱の為、麻のように乱れていました。
領地の奪い合い、戦いの連続でいつも苦しむのは農民たちです。
額に汗してようやく収穫を迎えようとしたとき、兵士たちに田畑を踏み荒らされ、あるいは砦として召し上げられ人々はおののきながら、実りのない秋と、寒気厳しい冬を迎えなければなりませんでした。
そのころ、一人のみすぼらしい旅の僧がふらりとこの地を訪れました。
僧は、人々の有様を眺めると、村のほとりに小さな草庵を建てだしました。
「太市さー、変な坊さんが何かやっとらせるのう。」
「おお、そのことよ、自分で仏さまを祀る庵を作るんだと。そこでおらが眺めておったら『田畑が荒らされたら別なとこに作ったらええ』といわしゃった。」
「馬鹿こくでねー。そんな田畑が何処にあるかいのー。」
「新兵衛さよ、おらもそう思ったんで、お前の言った通りのことを言ってやったんだ。すると坊主は『海の方なら荒らされんぞ』といわしゃった。おらは『あんなとこ、田んぼになるもんか、馬鹿なことこくでねい。』と言ってやった。」
旅の僧が家々を回って説いて聞かせても村人の重い腰は動きません。
そうこうしているある日、
「おいおい、太兵衛さ、見たかや。」
「おう、おったまげた。あんな海辺に稲が育っとるぞ!」
「ひところ、川の水を引いて、新しい田んぼに水をどんどん流しとったが『何をしとるんじゃ』と聞いたら『塩気を抜くんじゃ』と言わしとった。ほんとにそうじゃったんだの。」
黙って、せっせと海岸を干拓し新しい田んぼに緑の稲が育つのを見て、真っ黒に日焼けした僧の周りに大勢の村人が群がるようになりました。一人、また一人と鍬を振る者が出てきました。
こうして、長尾村の海岸には新田が広がり、教観と名乗る旅の僧は新しい土地での耕作方法を手に取るように村人に教えました。
新田はいつしか黄金の波が頭を垂れる、美田に変わっていきました。
村人は教観上人の背後に、仏さまの後光を感じ、僧が建てた草庵をいつしか、りっぱな寺に建て替えました。
その年の豊年を祈願するため、その寺の砂を頂き田畑に撒いたり、取れた作物を仏前に供え感謝の誠を捧げました。
新田は、聖人が干拓された美田のため、いつしかその地を「ヒジリ田」と呼ぶようになりました。

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