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第十三話  黒 鍬 物 語

「のう、次兵衛よ、早(は)よ家に帰りてえのう。」
「おお、黒鍬に出てから、もう三月(みつき)か。家のもんは、どうしてるだか…。」
「今日の仕事は、ことにきつかったが、もうじきに帰れると思うと…。だが、おたがいによう辛抱したもんさのう。」
「だがのう、兵吉よ。おまえはまんだ(・・・)一人もんだから、安気(あんき)なもんだが、おれたちゃが(・)き(・)やかかぁ(・・・)が口を開けて待っとるだから、こうやって、好きな酒もちょこっと(・・・・・)で辛抱してるんだ。」
「そうだ、九郎次よ。おらたち水呑(みずのみ)は、借金、借金でいつでも首が回らねえ。こうやって黒鍬かせぎに出るのも、みんな借金の返済ためみたいなもんだ・・・。」

 伊勢の山家(やまが)の粗末な板小屋では、ジージーと音を立てている暗い燈(とう)明(みょう)を囲んで、当地から黒鍬に来た人々が、遅い夕飯をとっていました。
いつのころから始まったのかは分かりませんが、農繁期や祭礼・盆・正月を除いて、この地方の小作百姓たちは、親方に連れられて三河や伊勢の大百姓の家の開墾の仕事に出かけていったものでした。
普通で三月(みつき)、長いものは、半年、一年と、わずかな道具を持って、集団生活をしながら、新田・新畑造りという、つらい労働に従事したのですが、なんといっても、お米のご飯が腹いっぱい食べられることと、給金(お米が多かった)や土産(みやげ)を持って家族の待つ家に帰れることが何よりの魅力でした。
食事は日に四回で、おかずは野菜の煮付けや塩魚少々の粗末なものでしたが、ご飯だけは制限なしで「一升飯を食う」といったものです(もっとも、それは給料として支払われた米ではありましたが)。でも、そのくらい食べないと体がもたないような、つらい土方仕事でした。依頼者(施主といいました)は、黒鍬者を専門家として、大切に扱ったものでした。
「金造さ、おれ、あしたはみんなと別れて、遅く立つつもりだよ。」
「なんだと。おまえ、こっちにええ娘(こ)ができたのか。それとも、どっかへ寄っていくんかい。」
「ううん。そんなわけはありっこねえよ。」
「じゃあ、なんでまた九郎次よ、早よ帰らんのだい。」
「…実はのう、家へ明るいうちに帰るんが怖いんだよ。首が回らねえようになって、逃げるように黒鍬へ出てきてから、おれだけは半年も留守にしてきたもんなぁ。だいぶ前の親方の話だと、家のもんは、どうにか細々(ほそぼそ)と生きとったということだから…。」
「それじゃあ、なおさらのことじゃねえか。あしたは、みんなより早立ちして、飛んで帰ったらええじゃねえか。」
「そりゃあ、家のもんは首を長くして待ってると思うだが…。ひょっとすると、借金のかたに、家屋敷を取られちまっとるかもしれんと思うと明るいうちにゃあ、とても村へ入れんが…。」
「お前のとこはおやじさんの代から都合が悪いでのう。それにしても、わしのとこも、人ごとじゃねえよ。」
「おれ、暗くなるまで村はずれで待っとって、それからこっそり、家(うち)の納屋(なや)へ忍び込むつもりだ。あすこには野ら道具が置いてあるが、みんな『マル九』の焼印を押してあるから、指で触ってみて、人手に渡っているかどうか調べてみにゃあ、家の戸をたたくわけにはいかんのさ。オーイ帰ったぞぉと、大きい声を出してえもんだ…。」

 すき間から月の光が差し込んでいました。それぞれ枕元にいっぱいの荷物を重ねて、大勢の男たちが安らかな眠りについております。みな、明日の久しぶりの帰宅、家族との再会を夢みているようでした。

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