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第二十話 武 豊 の 神 話

(二)衣が浦
大昔、景行天皇という方の第二皇子にオウスノミコトという、気性の激しい、武勇に優れた方がおられました。
父天皇の命令で、九州のクマソタケルを討ちとってから、ヤマトタケルノミコトと敬われましたが、次々と各地の討伐を命じられ、最後に「東方十二道の荒ぶる神を平らげてまいれ」と申し渡されました。「どうして私だけが休むひまもなく戦(いくさ)をさせられるのであろうか」と、ミコトは哀(かな)しく思われるのでしたが、天皇のご命令は絶対で、お断りはできません。
しかたなくミコトは、まず伊勢神宮で戦勝祈願をされ、大神にお仕えしている叔母のヤマトヒメノミコトにお別れを告げにいかれます。ヤマトヒメノミコトは、ヤマトタケルノミコトの身を案じられて、神器のアメノムラクモの剣(つるぎ)と火打石を贈り、道中の無事を祈ってくれました。
さて、神剣を携えられたヤマトタケルノミコトは、尾張の国の支配者、タテイナダネノミコトの協力を得ることができました。
ヤマトタケルノミコトは、伊勢・尾張の兵を率いて陸路を、タテイナダネノミコトは、知多の水軍を率いて海路をと、東征は二手に分かれて進められましたが、激しい戦いや苦難が次々と行手に待っていました。
陸路の一行は、サガムの国で焼き打ちの謀略に会いますが、剣と火打石で、かろうじて危機を逃れます。アズマの国で本隊と合流した水軍は、激しい暴風雨を受け、ヤマトタケルノミコトの妻、オトタチバナヒメの入水で救われるという、悲しい事件もありました。
しかし、戦の目的は達せられました。東北の辺地を残して、ほとんど日本の全土が、天皇の権威に従うことになったのです。
東征の軍は、再び水陸に分かれて、凱旋(がいせん)の途(と)につきました。

 勝ちいくさは、楽しく、朗らかなものです。漕ぎ(こ)手の声も明るく、強く響き渡ります。白い波をつづれ合せている青海原も、人々を祝福しているかのようで、甘い潮風が快く頬をなでていきます。
すでに、ふるさとの山々が、かなたに見えかくれするのが見られました。
タテイナダネノミコトは、船の甲板へ出て、船のゆるやかな動揺に身をまかせながら、帰りを首を長くして待ちこがれているであろう愛する妻、タマヒメノミコトや、妹のミヤズヒメの面影を思い浮かべておられましたが、ふと船のへさきに、まっ白な鳥が一羽止まっているのに気づかれました。
そっと近づいて、ミコトはハクチョウを捕まえようとなさいました。ところが、その時、突然船が大きく横揺れしたので、ミコトはザブーンと海へ転落してしまわれたのです。
さあ、大変なことになりました。幾度も幾度も、海面を探しまわりましたが、ついにミコトの姿は発見されません。船団は悲しく帰港するより仕方がありませんでした。
その後、ミコトの遺骸(いがい)が幡豆町宮崎へ、衣が南知多町師崎へ流れ着きましたので、土地の人々はその両地にハズ神社を建てて、ミコトをおまつりすることにいたしました。

 ――武豊町の東は海岸で、この海は衣が浦湾と呼ばれておりますが、タテイナダネノミコトの衣が流れ着いたというので、そう名付けられたのだそうです。
また、一説には、むかし、西三河一帯に勢力を持つ衣(コロモ)ノ(ノ)君(キミ)という豪族がおりましたが、その氏族の名前にちなんで、中心地を挙母(コロモ)と名づけ、近くの海を衣が浦と呼ぶようになったという意見もあります。

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